おはようございます。
今日も朝、観世音寺へ参拝し終わったところです。
実は、今年の4月15日よりはじめていたんですが
途中、1〜2週間参拝をやめていました。
6月7日から再開して16日目です。
なんで、毎朝寺へ参拝に行くのか?
2つあります。お礼と誓いの習慣化です。
毎朝やりはじめてからの退職→転職を経て現在を振り返り
新天地が自分にあっているし、無事転職できたこと
適職との出会いに感謝。
今後の成長のため、現在の職への取り組みが必要なことを考えると
やっぱりこれからもお礼と誓いを兼ねて伝えにいこうと決めました。
考える前に、足は寺へ向かって自然と動いてます。
自然と勝手に動いているということは
無意識領域に落とし込めてきている証でもあります。
現在、営業ノルマ100%達成を考えると
逆に、行かないと気が済まなくなりました。
結果から考えると、行かないよりは
当然、行ったほうがいいということです。
願掛けじゃなく、自分自身に誓うと言ったほうがしっくりきます。
何を誓っているの?
人生の目的です。
真の人生目的であれば、自然とあなたの一歩がすすむ
人生の目的を決めないと時間は刻々と過ぎていきます。
がん経験者としては、実にもったいないわけでして。
人間は無限の可能性を持っているので
自分さがしは永遠に終わらないです。
なんで、死ぬ前に心底実現したいこと(目的を明確にする)
後悔しないで死ねるあなたの人生をかけて成し遂げたいことを決めます。
逆算して結果から考えれば目的は定まります。
あれだけ目標嫌いだった自分がなぜ、歩めているのか?
人生の目的(本当の志)とリンクしているからです。
人生の目的が、死んでも実現したい真の志でないと
実現できたときの打ち震える感覚
高揚感はないので
心がすぐに折れます。
なんで、自分にうそはつかない。
自分の本心はごまかせないです。
自分の本心に誓う儀式が
参拝という型となっていると感じています。
目的と目標は違うのか?
厳密に言うと目的が人生の大テーマで
目標はその山頂へ到る、三合目、五合目といった
ぶれない、迷わないための単なる確認するための通過地点です。
途中で終わっても、やっていること事態に生きがいを感じられれば
途中でも、目標目安地点として置きかえられるんで
山頂(目的)に向かって一歩、一歩すすんで行けます。
なんで、目的と目標を同じラインで結ぶことが大事になってきます。
ここが明確になるとおのずと今日やることが決まります。
何をすればいいのかわからない、自分さがしが終了したわけです。
以前、おばあちゃんでも登れる山
高尾山で遭難した奴が何言ってるんだ!
そうお怒りになられる方、ごもっともです。
つまり疲労ピークで頭フラフラ
目的地がわからなければ、迷走するちゅうことですよ。
目的が明確に定まりイメージできれば、人生も今も迷わなくなります。
両方体験した奴が言うんで間違いないです。
迷わず行けよ、いけばわかるさ。
そう感じる今日このごろです。
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