今日は休みを利用して高校の同級生、親友Iと飲み会。
わざわざ、大雨の日に北九州から来てくれました。
地元の小さな温泉につかり
評判の居酒屋へ。
二人には、お互いがんを患った共通点があり
友は胃を半分切除。
自分は直腸を切除。
上と下が一部半人前の人間同士が相まみえました。
普通の身体の状態では生きられない不便を感じて
ひきこもりのような時間も乗り越えて
なんとか克服して現在に至り、お互いを笑えるようになりました。
そこで、思い出した何気ない出来事がひとつあり。
そのどうでもいいが、どうでもよくない話題をIに吐露。
弱い立場になった人の氣持ちがわかれば責めることはできない
以前の病気前の自分は恥ずかしながら、病み上がりの方、後遺症も持った方、お年寄りの方、身体がシャキシャキ動かない方の氣持ちが分かっておりませんでした。
あれは、12〜13年前ぐらい40代前半か半ばぐらいだったと思います。別の高校時代の同級生と久しぶりに地元で会うことになり、有名なママがいるバーで飲むことになりました。
夜の街界隈では名のしれた店でしたが、3人で乗ったタクシーの運転手さん、ご存知ない状態。
2次会か、3次会だったか結構3人共酒が入り、いい酔っぱらいで車内も他愛ない話で盛り上がります。
そんななか、カーナビで出発するも、なぜかそろそろ着いてもいい時間なのに
店が見えてこず。。なんか別の道に入り、結局遠回りになり、なんか様子がおかしい。。
オレ「あれ?近くまで来とうんやろうけど、なんか着かんね?」
運転手さん「すいません、ちょっと道がわからなくなってしまって」
友人O「運転手さん、そらいかんよ。あんたプロなんやけん。わからんとか言い訳したらダメばい」
オレ(Oに賛同)「そうたい。運転手さん金もらいよんやけん、わからなんならもっと迷う前に言うおうや」
友人H「おい、そげん言うなて。ご年配やけんそげんときもあるて、よかやないや、もう近くまで来とるけん、もうすぐ着くぜ」
結局土地勘のあるHの指示で口頭誘導して、無事到着。迷って過ぎた時間、料金に対して自分とOがブーたれながら、それを諌めるHがその場をまとめて終了。
有名バーで楽しき3次会となりました。
あれから約12年たった今なぜこの出来事がよみがえったのか?
病気の意味、弱者に回った方の氣持ちを知って、生きていける人になれ。
そう言われた氣がしたのです。
実は、最近Oが心臓病にて急死し、Oと親友だったHと話す機会があり、この時のことをふと思い出しHに話しました。
オレ「あん時はああ言ってもろうてよかった。感謝しとう。オレは運転手さんの氣持ちがわからんやったばってん。今はようわかる。やっぱ病気して、身体がダメになったら仕事もようできんようになってしもうたけんね」
オレ「だけん、今はご年配の店員さんやらも増えとうし、要領の悪い対応されても、待てるごとなったぜ笑。わからやったらこっちから教えるし」
H「おう、絶対文句言うたらいかん。待っときやい。同じ立場になったらようわかろうが笑。オレは逆に気い使うぜ」
オレ「そやね。そうした方が氣持ちがよか。そのとおりばい」
高齢化社会到来。コンビニの店員さん、スーパーのレジしかり高齢の方が見受けられます。
うまくいかなければ、それをきっかけにコミュニケーションに花が咲き、理解しあえれば
和むことができます。
その行為言葉をかけた時、その後の氣持ちがどうなのか?
氣持ちいいのか?悪いのか?言わなきゃよかった言葉なのか?
良心という偉大なセンサーがあります。
シンプルに良心に従えばよいですよね?
人の氣持ちがわかることで、自分の氣持ちも変わります。
同じ目線に立って伝えること。
上から目線では伝わりません。
その人を受け入れる姿勢になっていないからです。
受け入れる懐の深さに、相手の方も寄り添います。
言葉の前に、対する姿勢から伝わり、その場のコミュニケーションが
つくられます。
言葉の前に、心をこちらが開かないと
和むつきあいはできません。
れいわの時代。礼儀、礼節と和みが大事と勝手に解釈しています。
そんな氣持ちでないと、これからの社会に参加できない
自らを閉ざした人間になってしまちゃいけねえよ!って
σ(゚∀゚ )オレ戒めたわけです。
なんかそう思えた夜でした。
おやすみなさい。
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