5月16日、急性心不全で西城秀樹さんが、亡くなられてしまった。
いや、あえて親しみを込めて秀樹と言わせてもらおう。我らの秀樹が逝ってしまったのだ。
享年63歳。あまりにも早すぎるお別れである。
スターの輝きを放つ本物のスターが、本当の星となってしまった喪失感。素直に淋しさが去来する。
もくじ
なぜ、西城秀樹はアイドルのさきがけであり革命的ボーカリストなのか?
ふり返れば、私が小学校4年のとき1972年にデビュー。
グループサウンズ時代が終焉した頃、歌謡曲の世界に10代でデビューした西城秀樹。
演歌やムード歌謡とは一線を画したロック、洋楽のテイストを取り込み
ハスキーでありながらツヤのある伸びのある声。そしてシャウトもできる圧巻の実力。
180cm以上の長身のため日本人離れした衣装も似合う。歌唱力も抜群、その存在は、アイドルという範疇を突き抜けた正にスーパースターだった。
売れだしたのは1974年「情熱の嵐」から
情熱の嵐というタイトル通り、歌と激しいアクションが体現できる歌手であることを、日本中に轟かせた曲である。
歌の合間に「やめろと言われても〜HIDEKI!」
とファンとの掛け合いが入る曲は秀樹らしさの代名詞。
代表曲「ローラ〜♫ ローラ!」
で始まる傷だらけのローラしかりである。
それを作り出したのが、西城秀樹。
汗とジャンプスーツとスタジアムライブが似合う初めて歌手。
大阪スタジアムでのコンサートでは、ファンに懐中電灯を持ってきてと呼びかけた。
夜のスタジアムに銀河のような輝きを作ったのも秀樹が作った革命の1つ。今では、ファンが、ペンライトを振り回すコンサートは一般的な風景となっている。
ロックの開放的なエネルギーを舞台と歌で見事に消化しきって、歌謡界に新風を吹かせた。
魂から絞り出るような声、類いまれなる革新的表現力で、我々の本能を解き放ってくれる存在。それが西城秀樹である。
それは、この動画、1974年にヒットした薔薇の鎖に凝縮されている。明るいポップな曲調は今聞いても心地よい。そこに絶叫とマイクスタンドを操る姿が忘れられない印象として切り込んでくる。
HIDEKIが脳裏に刻まれてしまう象徴のような曲だ。
この70年代にマイクスタンドをぶん回しながらパワフルに歌う姿が似合うのは、矢沢永吉と西城秀樹二人しか思い浮かばない。
ボーカリストとして、当時、洋楽的世界を華あるオーラとともに体現できていたのは70年代当時、西城秀樹、矢沢永吉、沢田研二、フィンガー5のアキラの4人と断言する。
最後まで表現者の魂を貫いたスーパースターだった
脳梗塞を二度も経験し、壮絶なリハビリから這い上がる姿をあえて隠さず
同じ病気で戦う人への勇気になればと不自由を感じても、歌うことをやめなかった。
これは、スーパースターまで上り詰めた人間が、おいそれとできることではない。
格好良さで売れてきた人間が、自分のカッコ悪い姿は絶対に晒したくない。
そう思うのが人情。
しかし、秀樹は違った。器が違う。
父親となり、残された奥様への感謝とお子さん達へのメッセージとして、遺言として刻んでほしい思いが伝わる。
どんな逆境でも物ともせず自分を貫いて、あきらめず生き抜く力。それが、人生。
それを1番伝えたかったと思わざるを得ない。
そんな思いを観られる立場の表現者として、最後の最後までファンにも伝えた西城秀樹。
健康である当たり前のことは、実は奇跡のしあわせであること。
思い浮かんだ言葉が普通に話せることも奇跡の出来事であること。
水分を断ちサウナでの過酷なダイエットが引き金となった脳梗塞。
健康の大切さを説いて、「こまめに水を飲まないと、僕みたいになるから」と笑って話された優しい心遣いに敬服。
同じような病気で親が倒れた自分にとっても、有難いメッセージだ。感謝の念が沸いてくる。
真のスーパースターは歌を飛び越えて人生へのメッセージを伝えてくれる存在だ
もうすぐ本格的に夏がやってくる。
健康のための筋トレの合間に、水だけは飲むことを忘れるな。
秀樹の兄貴がそう言ってくれてると思い浮かべながら健康に留意することを誓う。
病気からのリハビリを経験した者として、さらに強く生き抜こうと
肉体を鍛えることで、精神も鍛えられるとそう思う今日このごろ。
みなさん、健康は奇跡です。
コメントを残す